浅尾比呂加さんは家族全員でバイクを楽しんでいます。
けれど昔からバイクに興味があったわけではありませんでした。
バイクに乗ることになったのはお父さんと走るため。
そして今はお父さんから受け継いだRebel 250が、浅尾さんの支えになっています。
家族でツーリングすることを決意
「父は昔バイクに乗っていたそうです。子供が生まれたときに手放したんですが、その後リターンしていました。」
大型のバイクを購入して再びバイクに乗るようになったお父さんですが、しばらくして病気で体調を崩してしまいます。
「体力が落ちて乗れなくなりそうだからバイクを手放そうかと言い出したんです。『それなら私が乗る』と言って大型免許を取得することにしました。」
浅尾さんは20歳の誕生日までに家族全員でツーリングに行こうと提案します。
お父さんが元気になるのではないかと考えたからです。
お母さん、お兄さん、お姉さんもこれに賛同。
家族全員がバイクの免許を取ることになりました。
当初はバイクに対して特に強い興味を持っていたわけではありませんでしたが、免許を取得してからバイクの魅力に惹かれるようになり、目標だった家族ツーリングを達成してからもバイクに乗り続けていくことになります。
大学生のときは通学やアルバイトへの足としてバイクが大活躍。
「ファッションでバイクに乗るライダーでしたね。バイクに乗ることでかっこいい自分を作り出せることに喜びを感じていました(笑)。」
この頃はこだわりのウエアとアイテムを身に着けて走るだけで楽しかったと言います。
苦難を乗り越えて前に進み続けた20代
20代は浅尾さんにとって激動のときとなりました。
最初に襲ってきたのは2016年に発生した熊本の大震災。
自宅が倒壊し、お父さんの経営していた観光関係会社「南阿蘇物産センター」も大きな打撃を受けます。
浅尾さんは家業を手伝って通信販売を強化。
ピンチを切り抜けることができました。
このときは、バイク関係で知り合った人たちの援助が大きな支えになったと言います。
家も建て直して新たな生活をスタート。
東京オリンピック聖火ランナーの熊本代表に浅尾さんが選ばれたことは、家族を笑顔にしました。
その後大きな転機が訪れたのはバイクウエアメーカーのクシタニが阿蘇にカフェをオープンさせたとき。
「父が昔から観光関係の仕事をしているのを小さい時から見ていたから、お客様と接する仕事がしてみたいと思っていたんです。地元阿蘇を盛り上げたいという気持ちもあってクシタニカフェで姉と一緒にアルバイトさせていただくことになりました。」
当時、地元の大学でコンピューター関係の仕事をしていた浅尾さんは、職場の許可を得て普段は大学、休日はカフェというダブルワークをするようになります。
この頃、お父さんが購入したのがRebel 250です。
「Rebel 250はその頃話題になっていたバイクでした。バイクに乗っている私達を見て、父もかっこよいバイクに乗りたいと思ってRebel 250を選んだのかもしれません。」
しばらくして博多にクシタニ福岡店がオープンすることになります。
浅尾さんとお姉さんは正式にクシタニ福岡店のスタッフとして働くことになりました。
「観光のことをいつも考えていたのでお客様に阿蘇のオススメのスポットを説明したりすることもできました。バイクの世界で働くのはとても幸せで、やりがいもありました。」
お姉さんはこの頃からCBR600RRを購入して本格的にサーキットも走るようになりました。
浅尾さんも同行してそれまでとは違うバイクの世界を知ることになります。
バイクのことをもっと知りたいと考えた浅尾さんはオフロードに挑戦するようになります。
「林道にもチャレンジしたんですけど根が怖がりなものだから、うっそうとした景色が怖くて泣いて帰ってきました(笑)。」
様々な経験を積みながらバイクに対する考え方や価値観なども変わっていくことになりました。
博多に引っ越してからもお姉さんと頻繁に熊本の実家へは戻っていました。
「父は私達が戻ったとき、家族皆でバイクに乗るのが楽しみだったみたいです。」
ところがそれからしばらくして浅尾さん家族を再び大きな悲劇が襲うことになります。
お父さんが亡くなってしまったのです。
父のバイクと事業を受け継ぐ決意
浅尾さんはお父さんの会社「南阿蘇物産センター」を次ぐことを決意。
仕事を辞めて阿蘇に戻りました。
「自分がやらなきゃいけないと思いました。クシタニの社長も快く背中を押してくれました。」
しかし世の中はコロナの真っ只中。
観光事業も大打撃を受けます。
「地震のときより更に酷かったんです。なんといっても観光客が熊本に来れないんですから。途方に暮れそうでした。」
窮地に立たされた浅尾さんでしたが、あきらめずに自分なりのトライを開始します。
まず取り掛かったのはふるさと納税の返礼品。
南阿蘇にある「あか牛」専門の焼肉屋さんから肉を仕入れ、OEMの会社に依頼して餃子を製造販売。
ホームページも新規に立ち上げました。
「クシタニ時代にSNSを活用して商品のPRなどをしていました。そのノウハウを生かしてお土産品の紹介をしていくことを考えました。」
地元業者の方々が取引を続けてくれたことに加え国の支援もあって、なんとか大変な時期を乗り越えることができました。
今ではたくさんの人が阿蘇に来てくれるようになり、事業の収支もプラスに転化。
精神的にもやっと落ち着いてきたのだといいます。
お父さんが亡くなったときはRebel 250を売却するという話も出たと言いますが、これも浅尾さんが引き継いで乗ることにしました。
「乗ってみたら想像以上に楽しいし乗りやすいことに驚きました。ABSなどの安全面も考慮されているので怖がりな私にピッタリなんです。デザインも良いですよね。最近のバイクってメカメカしいものが多いじゃないですか。そういうところを必要以上に強調していないし、クラシカルな雰囲気も感じられる。自分に必要なすべての条件を満たしていることが分かってからは、絶対に手放せない1台になりました。」
天気が良い日はバイクで配達することもあります。
Rebel 250で走ると良い気分転換になるんだとか。
配達ではお父さんがつけていたキャリアが大活躍します。
「仕事は順調です。昔から父と『どうすれば南阿蘇に人が来てくれるか』ということを話していました。今はそのことを実践して結果を出せるようになったことが大きな喜びになっています。応援してくれる人もたくさん出てきました。事業を継承して2年になりますが、幸せに仕事をさせていただいています。」
「父はなんにでも挑戦するスピリットと周りの人を楽しませる『おもてなしの心』を教えてくれました。私のやることをいつも後押ししてくれた優しさが、今でも私の生きる糧になっています。」
自分の力で道を切り開いていく浅尾さんを、Rebel 250はお父さんの代わりにいつも近くで見守っていました。
阿蘇を飛び出してみたい
浅尾さんはこれから遠くに出かけてみたいと言います。
「南阿蘇の自宅の前には素晴らしい景色とバイクで楽しく走れる環境がありました。今まではその環境に満足して阿蘇からほとんど出たことがなかったんです。でも最近になって、それがもったいないと思うようになりました。Rebel 250も荷物が積めるようになっていることだし、もう少し遠くに行ってみたいですね。もっともこれまで長距離なんて走ったことがないから、途中でくじけて帰ってきてしまうかもしれませんが(笑)。」
取り敢えずの目標は九州最南端の佐多岬。
その後は四国方面も考えています。
「免許を取った頃は、日帰りで父の後ろについて走っているばかりでした。そんな父が残してくれた素晴らしいRebel 250があるので、今度は自分の考えと自分の運転で遠くに行きたいんです。会社も落ち着いて精神的にも安定してきた今なら行けそうな気がしています。」
根っから臆病だから遠くに行くことも怖かったのだと浅尾さんは言います。
けれどRebel 250に跨ると少し勇気が湧いてくるようです。
それはいつも浅尾さんを応援してくれていたお父さんのことを思い出すからなのかもしれません。
【文/後藤武(外部ライター)】